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東京地方裁判所 昭和59年(特わ)913号 判決 1984年7月25日

主文

被告人を懲役一年二月に処する。

未決勾留日数中六〇日を右刑に算入する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、法定の除外事由がないのに、昭和五九年一月下旬ころから同年二月一〇日までの間に、東京都内若しくはその周辺において、フェニルメチルアミノプロパンを含有する覚せい剤若干量を自己の身体内に摂取し、もって覚せい剤を使用したものである。

(証拠の標目)《省略》

(事実認定について)

被告人は本件公訴事実を全面的に否認し、弁護人もこれを支持し、本件公訴事実の立証は不十分であり、被告人は無罪である旨主張している。

しかしながら、《証拠省略》によれば、被告人は昭和五九年二月一〇日警視庁大井警察署において自らの尿を任意に提出し、同警察署警察官がこれを領置したこと、右の尿はその後警視庁科学捜査研究所あてに鑑定嘱託され、同研究所第二化学科主事阿部猛により右尿中の覚せい剤の含有の有無につき通常実施されている方法に従い鑑定がなされ、その結果右尿中から覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパンが検出されたことが認められる。そして、採尿から鑑定嘱託に至る過程及び鑑定の過程において、何らかの過誤や作為が存した形跡は窺われず、被告人が、右採尿時にその体内に覚せい剤を保有していたことは、動かし難い事実と判断される。

ところで、弁護人は、被告人が飲食した物のなかに覚せい剤が入っていたかも知れないし、覚せい剤が被告人の体内で合成された可能性も否定できないと主張する。そして、被告人が当時三日に一度位の割合で朝鮮焼肉を食し、その際キムチという漬物を食べていたとし、このため被告人の体内で覚せい剤が合成されたことも十分考えられるという。

しかしながら、被告人が誤って覚せい剤を使用したとか、何者かが被告人の飲食物に覚せい剤を混入させたというような状況は全く窺われないので、被告人の体内で覚せい剤が合成された可能性について以下検討を加えることとする。

確かに、弁護人提出の「医学のあゆみ」第一二九巻第一〇号六九二頁以下、「法中毒学会ニュース」二巻二号一一頁以下によれば、東京大学医学部法医学教室の実験により、キムチを食した被験者らから、尿一〇〇ミリリットルあたり〇・一マイクログラムないし一マイクログラムの覚せい剤が検出されたと公表されていることが分る。しかしながら、《証拠省略》によれば、警視庁科学捜査研究所における尿の鑑定は、薄層クロマトグラフィー検査、呈色試験及びガスクロマトグラフィー質量分析(ただし、覚せい剤の量が多い時はこれに代って赤外吸収スペクトル)の三段階による方法で行なわれ、直ちにガスクロマトグラフィー質量分析を行っている右の東大法医学教室における検出方法とは異なること、第一段階の薄層クロマトグラフィー検査においては、これを通過するために五ないし一〇マイクログラムの覚せい剤が必要であること、第二段階の呈色試験はシモン試薬によるものと、ホルマリン硫酸試薬(マルキス試薬)によるものとの二種類の方法で行われるが、いずれの場合においてもこれを通過するためには五ないし一〇マイクログラムの覚せい剤が必要であること、またホルマリン硫酸試薬(マルキス試薬)による試験の場合には覚せい剤が破壊されてしまうため、二種類の呈色試験を通過するためにはその倍の量の一〇ないし二〇マイクログラムの覚せい剤が必要であること、第三段階におけるガスクロマトグラフィー質量分析においては、資料は一度に使用しないでいくつかに分けたものの一部が使用されるが、このようにして使用されたものが一マイクログラムの覚せい剤を標準資料として、これによって示されたピーク(約二センチメートル)以上のピークを示さない場合には、覚せい剤が検出されたとはしない扱いであること等が認められ、警視庁科学捜査研究所における尿鑑定においては、相当に多量の覚せい剤がなければ検出とはされないことが認められる。

そして、《証拠省略》によれば、被告人の尿鑑定も、右の薄層クロマトグラフィー検査、呈色試験、ガスクロマトグラフィー質量分析の三段階の方式に従って行なわれたものであること、その際覚せい剤の有無の判定等について格別困難な問題を生じたようなことはなく、かえって呈色試験においては十分な量の覚せい剤の存在を窺わせる反応のあったこと、ガスクロマトグラフィー質量分析においては標準資料によるピークである約二センチメートルをはるかに超える約一〇センチメートルの高さのピークが示されたことが認められる。そうすると、被告人が昭和五九年二月一〇日に任意に提出した尿中に相当に多量の覚せい剤が含まれていたことは明らかというべきである。

《証拠省略》によれば、警察庁の科学警察研究所において前記の東大法医学教室と同様の方法による追試験がなされたがこの場合は覚せい剤は検出されなかったということであり、覚せい剤の生体内合成については、今後の研究を待たなければならないものと思われるが、前記の報告によれば、東大法医学教室における実験により生体内で合成されたとする覚せい剤の尿中に排出された量は、尿一〇〇ミリリットルにつき〇・一マイクログラムないし一マイクログラムという微量てあり(この程度の覚せい剤であれば、警視庁科学捜査研究所における鑑定では検出とはならないことは明らかである。)、被告人が尿の排出当時体内に保有していたような多量の覚せい剤が、被告人が食したとする程度の量のキムチによって合成されたということは、たとえ個人差ということを考慮に入れてもありえないことと判断される。

また、前記「法中毒学会ニュース」二巻二号一一頁によれば、ある種の漢方薬によっても覚せい剤が合成されたとの報告もなされているが、これによってもキムチの場合以上に格段に多量の覚せい剤が検出されたという例はないようであるし、本件被告人についてみれば、このような薬品類を使用したとの状況は全く窺われない。

以上によれば、被告人は、覚せい剤を自己の身体内に摂取したものと判断すべきであり、現在警視庁科学捜査研究所において行われている鑑定方法により検出しうる覚せい剤の体内残留期間が長い場合でも二週間から二〇日前後であること、その期間の被告人の行動範囲が東京都内若しくはその周辺に限られていること等を合わせ考慮すると、判示事実は証明十分と考えられる。

(法令の適用)

罰条 判示所為は覚せい剤取締法四一条の二第一項三号、一九条に該当。

未決勾留の刑算入 刑法二一条。

訴訟費用の負担免除 刑訴法一八一条一項但書。

(裁判官 門野博)

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